1988年のジロリン(6)

・1988年7月29日 上海 浦江飯店
なんだか気分はもりあがってきてます。今日は浦江最後の夜です。なんだか上海好きになってきてます。昨夜〜今朝は思考が昂ってよくねむれませんでした。目覚めるとすぐメシはトースト、コーヒー、ゆで玉子でした。その後帰りのキップをとりにいったが人民元不好であきらめて站の下見。浦江に戻って豫園とその市場へ。また浦江に戻ってタクシーで雑技団ーーサーカス。僕は泣いた。初め、ビールの酔いも手伝って、楽しくさわいで見ていたが、皿回しの5人の女性たちの番になって気持ちが変化してしまって目頭熱くなり、シーソーを使っての芸のところでもうぼろぼろでした。どうしてでしょう。今日は、僕はどうも現実の中にドラマを見いだしてしまったのです*1。今演技してるあの女の人はきっと相手と愛し合っていて、男は「きちんと自分の肩に着地しろよ」と、女は「ちゃんとうけとめてよ」とお互い念じているの。で、その念むなしく1回目失敗しちゃって、お互いもう動転しちゃってるんだけど、なんとか2回目成功してホッと一安心。今晩はより互いをいとしく感じられるのだね*2。或いは、皿回しのリーダーであるMiss王は、もうそんなに若くなくて毎日の演技も楽ではないのだけど、仲間の枠をこえてつきあっている後輩たちのためにまだ続けなければならないし、プライドが引退をひきとめている。犬使いの男にも空中ブランコの花にも裏方のオーケストラにもとなりの中国人家族にもいろいろなドラマが感じられた。僕は涙なしには見ることができなく、またといおうかやはりといおうか、泣くのは気持ちのよいことであった。しかし休憩になり、後半が始まってしばらくすると、いっしょにいた人たちの楽しい合いの手、客たちの拍手(それはさっきまではより感動を深める材料であったのだが)、それと僕の心の持続性のなさ(or生きていくための必要装置)などのため、またただの楽しさの中へと心は落ちていった。象が出てきたときも、そして象がミスったときもそれはかわらなかった。象はどうしたのか調子が悪く、客の見ている中で排泄をしてしまったし、ちんぽもちょっと見えやすくなってしまった*3。僕も他の客も笑ってしまった。素直に笑っていた。みごとに爆笑していた。あわてているけどそれを客には見せられない女の演技者、彼女はいつもその象をかわいがっていただろう。今日もがんばるのよ、と頭をなでてあげていただろう*4。男の調教師だって、裏で見守っている団長だって、それからサーカスが好きでよくみにくる動物好きの少女だってだ。彼らはどういう思いで象の失敗(やはり失敗だ)と観衆の笑いを感じていただろう。僕がそう思ったのは、笑いが起こって(自分が笑って)から少したってからなのだ。罪の意識か何だか知らないが、僕は恥ずかしく思う*5。ほんとうだ。あの象とサーカスの人々に謝りたい*6。でも最後のあいさつが終わる前に僕らは席を立ってしまった。そしてホテルに帰ってから談笑してしまった。話の種にしてしまった。彼女のけなげな笑顔、あの後の出演者のけんめいな演技。反省したい。Aならあのとき笑わなかっただろうと思う*7。そんなにロウな気分なわけではないけれど。

*1:というか自分で勝手に妄想して悦に入っているだけ。

*2:プロフェッショナルはそんなことでいちいち感傷にひたらないということをわかってない。

*3:素直に「ちんぽ」と書くんだったら素直に「勃起していた」と書けばいいのに。

*4:それはどうかな?

*5:かっこつけんなボケ!

*6:自分に酔うなボケ!

*7:いや、Aも普通に笑っただろうよ。