俺過去日記.3

  • 1986.03.31

 やっと「禁色」を読み終えた。最近小説を読んで感じるのは、小説ってこんなもんでいいのかしらということ。禁色も、524ページも使っているのにケツがすっきりしない。おわり方は重要でないのかしら。断片的にいい感じがだせればそれでいいのかしら。何かこうすっきりとしたオチみたいものが必要なんじゃないかしら。意味を含ませたままおわるのがいいのかしら。構成を考えて書いた一流の作家がおわりに気をつかわないことはないだろうが、最後は街の風景を適当にかいておけ、というふうに片づけてはいないだろうか。俺が作者の気持ちを読みとれていないのだろうけれど、俺はやっぱり映画的な決着を好みたい。 今日グレムリングーニーズをみてきた。グーニーズはよかった。心がときめいた。しかし、また自分のあらに気づいた。というか前から感じていたことだけども、僕はみられることを意識している。意識したがっている。席をさがしていったりきたりするときとか、スクリーンに見入っているときにさえもふと自分が自分の表情、顔の角度等を他人(特に女)がどうみているかを気にしていることがわかる。ナイーブで陰うつの影がありながら朗らかな風合がにじみでている少年を演じていることに気づいてしまう。どうしても期待してしまうのだ。隣の女が手をさしのべてくれるかもしれない、いい関係になれるかもしれない、と。いつもそんなことはない、といいきかせるのだが、あばら骨のどこかにこびりついているのね。これからもずっとそうだろう。安川のいっていたことはほとんどが禁色のうけうりだった。太田先生がいったことを本の中にみつけると、いい気持ちになって共感することができるが、彼のいったことを見出してもその考えはみみっちくみすぼらしくみえてしまう。彼からきかないで読んでいたら、あっもう先に書かれてしまった、と思って三島由紀夫を敬ったかもしれない。三島由紀夫はあまり好めない。あの顔を思い出してしまうし。何かこう悪い意味で野暮ったい顔だ。地下鉄で隣に乗り合わせたらふとした風にのせて口から動物園のうんこの香を運んできそうな感じだ。ケンジにもちょっと似てるかな。 男の魂というもの、精神というものはちんぽにある。タマだけでなくさおだけでもないちんぽ全体に息づいているのだ。そう考える方が、頭の中とか心臓にあるとか考えるより自然であり強い。女の場合はどうかというとそれはわからない。何年かしたらわかるだろう。 プルーンを食べたので屁がスカスカでる。新しいトランクスはもう存分に俺の生の証拠を胸いっぱいに吸いこんだ。おかげで俺の方はあの素敵な気持ちになることができない。ちょっとの間肛門を解放するのだ。全砲門ひらけ、である。またでた。屁というのはうんこよりも射精に近い。自分の屁はいいにおいだから。