『あだち充は世阿弥である。』の感想〜

あだち充は世阿弥である。

あだち充は世阿弥である。

あだち充、おれ、ほとんど読んでないんだよなぁ。アニメの『タッチ』は見てたけど、なんか登場人物がみんな脚が短いなぁと思っていたぐらいの印象しかなくて。なんてったって、おれのマンガ人生は小学生時代に読んだ『火の鳥』&『すすめ!パイレーツ』で終わっているからなぁ。
といいつつ、世代的にはギリギリ『タッチ』世代です。『タッチ』世代ってのは、「10代のもっとも多感な時期に、『タッチ』を初めとするあだち充のマンガ作品と出会い、青春を過ごした、主に1967年から77年生まれの男女」を指す、著者ツクイヨシヒサさんの造語ですよ。
で、この本の主張は、あだち充は日本社会が伝統的に大切にしてきた間や曖昧さやわびさびをマンガで表現する希有な伝統文化正統継承者である、ということ。そして、タッちゃんこそが「草食男子」の元祖であり、ギラギラしないでやさしいだけで傷つくのを極端に恐れる男子が増えているのは、彼らが多感な頃にあだちマンガを読んでいたからである、と看破しています。
あー、言われてみると、確かに、と思う。これは明らかにシャープな指摘だね〜。少なくともおれは初めて聞きました。論旨がナチュラルだし、別に破綻してないし、適度に著者の育ち様(栃木育ちの野球部挫折組だそう)とかもうかがえて、カジュアルな雰囲気で一気に読んでしまいました。
ただ、「あだちイズム」が日本を救うってのは、どうかな〜。救わないと思うな〜。達也と和也と南のために子供たちだけの城を作ってやる親なんて、この貧困真っ盛りのいまのおれだと、想像するだけでもムカつくんですけど。おまえらなんちゅうセレブ一家やねん!ケッ!と。 
経済的問題を感じさせない作品は浮世離れしていてどうも興味持てないというか、おれとはまるで別世界だとしか思えず。成田でも羽田でも、おれ別に飛行機なんて乗らないし、成田にも羽田にも住んでないから関係ないし…っていう、自分に関係ないことには思考停止してしまう低レベルな人間ですと言ってるようなもんですけどもね。
どっちかというと「巨人の星」的な貧乏ハングリー感のほうに惹かれるのはやっぱ人間性なんでしょうかね。日本的な曖昧さなどなどは確かに伝統的なものだと思うけど、むしろいま求められているのはもっともっと昔の縄文時代の日本人らしさじゃないかな〜、なんて思います。
といいつつ、おれなんか肉体的にはバリバリの草食系なんですけどね。魚食系か。