さよなら、おれの「フロム・エー」

taquai2009-03-31

3月30日発売号をもって「フロム・エー」が休刊しました。ネットは続くが紙媒体としてはこれが最後。おれにとっては、初めての会社であり、この仕事につくきっかけとなった編集部であり、20代のすべてを過ごしたといって過言ではない重要な場所でした。昨晩、青春をすごした新橋のガラス張りのビルの前に行って、一人で自分なりに惜別の挨拶をしてきました。さようなら。おれの「フロム・エー」。

僕の家は裕福じゃなかった。
母はいつも「金がない」ってこぼしていた。
うちに金がないのは社会のせいだ。幼い僕はそう判断した。
世にはびこる腐敗やら、金権政治やらを暴くことで、
がんばってまじめに働いた人が報われる社会になれば、
めぐりめぐって自分も貧乏から脱することができると信じていた。


就活の時期が来ると、当然のように新聞記者を志望した。
全国紙、地方紙、通信社と、片っ端から入社試験を受けた。
全部ダメだった。
留年する余裕はなかったから、卒業して、とりあえず都会に出た。
一年間バイトで働いて、社会勉強ってやつをして、
翌年にもう一度新聞社の入社試験を受けるつもりだった。


僕は都会のアルバイト情報誌を手にした。
こんなにも多くの仕事があるという事実に驚いた。
こんなにも多くの仕事を毎週載せている雑誌にも驚いた。
そして、その情報誌を作っている会社でバイトすることに決めた。
いろいろな業種、いろいろな職種の求人広告を扱う会社が、
新聞記者になる前の社会勉強にはうってつけだと考えた。
即戦力のある記者になった一年後の姿を想像して悦に入った。


でも、配属されたのは、求人広告とあまり縁のない部署だった。
情報誌の巻頭と巻末につくおまけのようなページを作る仕事だ。
ことわざの「二階から目薬」を実際に試してみたり。
ロケット花火を自転車につけて加速するかどうか確かめてみたり。
肩車で街を闊歩して「身長3m男」の生活を再現してみたり。
そんなことばかりやっていた。
重要なのは、くだらなく思えることを真剣にやるおもしろさなんだ。
少なくとも僕はそう信じた。


たった100字の編集後記に編集長のOKが出ず徹夜した。
疲労で階段の踊り場に倒れて気を失ったりもした。
だけど、仕事は楽しかった。
おもしろ記事に打ち込むうち、月日はあっという間に流れた。
やりたくねぇことやってるひまはねぇ。
大好きなバンドが我鳴っていた。


一年後。街角に落ちているタバコの吸い殻を拾い集めて
銘柄別の人気を調べる記事を作っていた。
吸い殻を並べる敷物として広げたその日の朝刊に、
新聞社の入社試験要項が載っていた。
一回読んで、そのまま捨てた。


腐敗を暴いて社会を変革……なんてまどろっこしいだろ。
とんちきかせて、おもしろいこと書いて、
日本全国の1億人を爆笑させることができればさ、
貧乏とか裕福とか、そんなの関係なくなるんだよ。
熱く語る先輩に、だまされてみようと思った。
そうして、僕はフリーライターになった。
1億部にはほど遠いけど、自分の著書を出すこともできた。
ある日、新聞の書評欄に、僕のとんち本が載っていた。
僕にしかわからない、せめてものリベンジを果たした気分だった。


社会変革なんてできなかった。裕福にもなれなかった。
でも、その編集部でバイトしたことによって、
僕は自分の適性というものを知ることができた。
おもしろいことをやる、という生涯の使命を得ることができた。
少なくとも僕はそう信じている。


その情報誌には、有名人がバイト体験を語る名物ページがあった。
以前は実物大の顔写真が添えられていた。
いつかビッグになってそこに登場する。編集部を去る僕は心に誓った。
おもしろいことが偉いんだぜって、熱く語ってやろうと思った。
叶わなかった。全然間に合わなかった。
肌が荒いから写真修正しといてくれよ、なんて台詞も用意していたのに。


僕の家は、いまも、裕福じゃない。
妻はいつも「金がない」ってこぼしている。
その彼女こそは、編集部のアルバイトで僕が得た、
もう一つの大事な宝ものなんだ。