過去俺日記.2

  • 1986年3月30日

 「禁色」あと100ページ。男色家というのはどんなもんなのか。この辺にいるのかしら。その人たちの行為を一度見てみたい。パンツを脱がないままなら何となく理解できる。美しい顔をした男性とくちびるを重ね合わせ、ひきしまった筋肉を愛撫。これはわかる。くちびるというのは女も男もかわりないだろう。目をつぶって耳をふさいで鼻をふさいでいれば女だか男だかわからないだろう。実際そうだ。堅くしまった体には触れてみたい。ほおずりしてみたいと思うし。でも下半身となるとこれはおぞましい。いやだ。第一、俺が相手の男のモノをまさぐっている姿を想像するのはえごい。男色家は自分のそういう姿をみせられても平気なのだろうか。相手が女なら興奮は増す。オナニーのときというのは自分の視点はどこにあるのか。女だけをみているのか。自分がやっているところを第三者的にみて興奮するのではないか。どうかしら。男色家の行為はどうなったらおしまいなのか。やはり射精なのかしら。女のオナニーはどうなのかしら。こんなことは女が読んだら俺のガキさを笑うのかしら。えんこちゃんはオナニーしてるのかな。していてほしい。俺のことを考えながらだったらいいのに。女の尻というのは実にいい。それに較べて俺の尻の何と空しいことか。でも尻が小さいというのは男らしいことなのだ。俺は男らしい男なのだな。はやく大学が始まってくれないかな、とさっき思った。今はそうでもないが。まず体をつくらなければならない。尻はこれでいいさ。胸だ。女がこの上にたたずめるようにしなければならん。しかし乳首がちょっと不満だ。小さすぎる。女のようにとはいわないがもっと突起がほしい。俺のはまるでちょっと大きいにきびだ。つぶすと白いしるがでそうだ。背中や胸をひっかいて微かなつぶみたいのをほりだすのは好きだ。どこかにためてとっておきたいところだ。そういえば最近たまきんをひっかいて爪の裏についてくるかすをとっていない。あれをとるとどうしてもにおいをかいでしまう。くり坊は自分の存在を確かめているのだといったが、なるほどそうかもしれない。以前のかずはもうカラカラにひからびている。水をかけてふやかしたらまた匂うかしら。右ひじのところがぼけぼけしている。かゆくてかいたところがしっしんのように赤くなっていてなかなか。もう一月ほどだ。直らない。これは母の血だろう。ヒフが弱いのは困りものだな。股のつけ根の赤腫れはどうなったのだろう。フルコートFが直してくれたのか。とするとあれはインキンだったのかしら。ほんとかゆかった。「つめで頭をかいた。いつものようににおいをかいだ。10秒ごとに6回くりかえした。今はもう、におわないのだ。額を指でなぞると指のはらがつやつやする。大丈夫。俺はまだ若い。高校生はもっと油びるべきだ。さわやかさを売りものにしてはいけない。整髪料はポマードにしなければならない。毎日フロに入るなんて邪道だ。パンツも毎日かえてはいけない。顔は油でぎとぎと、手でなぞってそれを紙の上につけると紙が若干茶色くならなくてはいけない。むっとする体臭をもっていなければならない。つめの裏にはあかをためなければいけない。肌をひっかいた後でつめの裏にはくろいかすがたまらなければいけない。そのかすはにおわなければいけない」なんてね、この、前はそう思ったけれど、そんなこと自分にはできやしない。ポマードにしてみたけど大湯に髪が抜けるぞ、といわれてやめてしまった。フロに入らないでいようとしたけど他人の目がきになって入った。俺はいつも考えるだけなのさ。 さっき母が麻雀するか、とさそった。俺はどこかで予想していたとおりあいまいな言葉でにごした。お父っつぁんもやりたかったのではないか。俺が子供らしく若者らしく快活にこたえてさえいれば楽しいひとときがあったのかもしれないのだが。俺のこういう性格はいつも後になって自分を苦しめる。これは親を憎んでいいのでしょうか。僕のいいわけをいいますと、うちは暗い家庭だったでしょ。小さいころから親子で話をするってことがあまりなかったでしょ。だからね、ぼくなんかは慣れてしまったわけだよ。他の家庭、テレビでみるよな家庭だったらなぁって思いながらもね。だからこのぐらいの年になってから、どう心がわりでもしたのか父上様が雰囲気をかえようと努力なさってももう無理なんですね。ぼくはつらいです。ぼく同様シャイな父上がけんめいに場をもりあげようとなさっているようすがいたいほどわかっていながらそれに素直に対することができないでいるのです。もう少し早くだったらなぁと思うね。ぼくの心はもう屈折してしまったのだろうよ。屈折なんていうと、ぼくはいい感じを受けてしまう。青春を感じる。 中学生の頃だったか、長浜さんの家で、「あんなヤツみたいにはぜったいならないからね」といって目をうるませた、あれは何だったのかな。俺は広昌と同じような生き方をするような気がする。作家になりたいなあと思い、ざせつし、どっかの会社に入ってけっこう才能を示しながら、おしよせる生活の波にのまれて神経をみだして一線から遠のき、分別のつくようになった息子から複雑な思いをよせられて、碁と酒だけに小さな楽しみをみいだし、借金を払うためにそれでも会社にいく。たまにサボって。 こんな風に感じるってことは俺は平凡な奴ってことさ。平凡とか非凡とか気にしてるってことは自分が平凡だってことさ。こうかいて何と平凡なことをいってるんだと思ってるってことは……俺は大したことのない奴ってことになってしまうのかね。信じたくないね。信じたくない、と意識しようとしてもその裏ではもうあきらめているんじゃないかい。そんなことでいいのか。みんなに何度もいったじゃないか。俺はやるぜ、てめえらみていろ、と。そんなことではさげすまれるぞ。いやいいのさ。どうせみんな真剣にきいてなんかいないさ。大学いって適当にやってりゃいいんだ。何も考えていなくたって屁はでる。くそはでる。鼻くそはたまる。年をとる。何とかなるってことになってるんだ。それでも俺は書くのだよ。「俺達は若いから何でもできるんだ」と。